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お世話になります。
先日米百俵の記事で、長岡市の河合継之助を記載しました。以前よりどうしても行ってみたいところがあり、それが河合継之助記念館でした。
行けそうで行けなかった同記念館へ訪問してまいりました。
場所は、福島県南会津郡只見町。福島県の西のはずれの豪雪地帯にあります。
まー遠かったです。本当に遠く、山と雄大な只見川が流れる本当に自然の豊かな場所でした。
最近は映画『峠』の上映により、街を挙げて応援している感を得ました。
記念館近くになりますと、下記の様に旗がひらめき立ってます。
下記写真は第二駐車場から撮影。
歩いて、写真左手上にあります、記念館会へ
そしたらですね、記念館の前にも駐車場ありました。
第二駐車場と線路は挟んで記念会館がありますので、記念会館前に駐車したい場合は、252号線只見高校方面よりの途中から回って、駐車場へ入れます。
只見川と比べ高台にある格好です。
館内には、いろいろな展示品がありますが、目玉の一つが河合継之助の終焉の間です。実物です。3部屋あるのですが、一番奥の部屋で亡くなったそうです。
どうして、ここに部屋があるかということをスタッフの方にお聞きしたところ、その背景に感入りました。終焉の間は只見町塩沢の村医 矢沢宗益の家なのですが、矢沢宗益が河合継之助を診てより5代後の矢沢家当主の時代に、塩沢地区が水の底に沈むことが決まったそうです。理由は、只見川を堰き止め、ダムを作り水力発電所を建設するためです。
その時に5代後の当主は終焉の間の移築を行ったそうです。スタッフさんのお話では、当時の当主は幼少期より、この部屋は新潟の偉い人が亡くなった場所なんだ、と言い聞かされていたそうです。そして、ダム建設時にそのようなお人が亡くなった部屋をなくすわけにはいかないといって、3部屋のみ、もともとの場所から高台の方へ、移築したそうです。おそらく自費で移築したのでしょう。5代後ってそれなりに年月は経っていますよね。それをよく、矢沢家では言い伝えられ、当主はそれを信じて、そして歴史的意味を感じて、実際に実行したものだ、と感嘆いたしました。
ダムの底に沈むという時に、歴史資産を考えられることもすごいです。そのお陰で今目の前にあるわけですから。
長岡藩は当時最新の兵器であったアメリカ製のガトリング砲は所有していました。アメリカ人の武器商人のスミスから購入したそうですが、当時の最新鋭の武器を手に入れるあたり、河合継之助の先見の明と外交手腕に凄さがある。当時日本に3門しか存在せず、そのうち2門を長岡藩が所持していたことがその表れであろう。
下記は、テレビでご活躍の林修先生のサインもございました。
Netで調べますと、映画『峠 最後のサムライ』の宣伝特使だそうです。2015年当時は特使でもないと思いますので、個人的に来られたかどうかはわかりませんが、相当歴史が好きなのかもしれません。
映画の解説の動画を拝見しますと、河合継之助に敬意を表しているのがわかりました。
現場を確認し、解説しているあたりは流石です。
下記に動画のアドレスを載せておきます。
映画『峠 最後のサムライ』公式サイト 大ヒット上映中! (touge-movie.com)
記念館の目の前には、只見川が流れています。写真では感じないかもしれませんが、雄大に流れています。もっと下流にいきますとダムですので、本当に雄大です。
記念館を堪能した後は、河合継之助のお墓へお参りです。記念館から歩いて250mぐらいの場所に、河合継之助の墓があります。(看板では250mですが、もっと短いような気がいたします)
終焉の間で息を引き取った継之助は、ともにしていた寅太(外山修造)に、息を引き取る前日に棺桶を作らせます。そして、死後は火葬にするように命じたそうです。
そして、翌8月16日の20:00頃、波乱にみちた人生を閉じました。享年42歳。慶応4年(1868年)8月16日、只見に入り12日目のことでした。
遺言通り翌17日に火葬は行われ、村人によって細い骨を集め、医王寺の墓所に埋葬され、手厚く供養されたそうです。スタッフさんによりますと、毎年命日の16日には墓前祭が行われているそうです。154年たった今でもです。太い骨は、会津に運ばれて、遺骨は会津の円福寺に埋骨されました。
長岡市には、栄涼寺(えいりょうじ りょうの漢字二水に京)という河井家の代々の墓があり、そこにも継之助の墓がございます。藩主の牧野家の菩提寺でもあるため、藩主や戊辰戦争の戦死者らを慰霊する「追遠の碑」があり、藩士も祭られています。
お墓の隣には、只見川に流れ込む支流と思われる川はよっくりと流れています。
わたしが訪問した時には、カモが飛び立っていきました。
現地へ訪問するとわかるのですが、本当に田舎の場所です。田舎の人間のわたくしが田舎というぐらいの場所なんです。
継之助が長岡から会津へ向かう途中に位置するのが只見町です。80里峠と呼ばれた峠を越えて、只見についたわけですが、実際の距離は8里ほどです。1里は約4㎞なので、32kmほどです。それが、80里(約320km)と言われたのは、それぐらい険しい道のりだったようです。その感覚を現場に行きますと感じることができます。
昔の人はよく歩いて移動したな、と驚かされます。車でも遠いこの場所を、歩きでもって移動するなど驚き以外にないです。しかも、旅ではなくて戦争中にですよ。
享年42歳の河合継之助の人生を垣間見、先人達の我が国を思う気持ちを感じた旅でした。
希望すれば、スタッフさんが解説もしてくださいました。丁寧に、わかりやすく解説してくださり、より一層深く記念館を見学できました。
最後に、河合継之助が峠を越える際に読んだとされる句をご紹介
「八十里 腰抜け武士の 超す峠」
何とも寂しい、自嘲の念を感じる句です。
是非、ご見学を。