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「米百俵」
現在、映画で「峠 最後のサムライ」が上映されているかと思います。歴史小説の大家、司馬遼太郎氏の名作「峠」を映画化した作品です。
「峠」の舞台は江戸末期の幕末、長岡藩。現在の新潟県の長岡市です。主人公は長岡藩の家老 河合継之助(かわいつぐのすけ)。戊辰戦争当時の状況を交えながら、長岡藩と河合継之助がたどった歴史が小説となっています。上下巻の大作ですので、読むのに時間がかかりましたが、初めて知ることが多く、非常に勉強になりました。
特に感じたのは、河合継之助の考えです。
当時の幕末の戦時下で、よくそのように考え主張できたものだ、と感じました。
当時は、全国に276藩があったそうですが、薩長連合の新政府軍につくか、旧幕府軍(奥羽越列藩同盟)で戦うか、という日本を二分するなかで、河合継之助は当初、どちらにもつかない、という中立を主張したそうです。更に、日本の中にありながら、長岡国を作り独立するという考えだったそうです。
現代ではその考えもあるよねー的に多様化を認めてくれるかもしれませんが、当時は風見鶏的な卑怯な考えと思われ、ありえなかったのだと思います。
武士の立場からみたら、戦いたくないとは何事だ、腰抜けと思われることもあったでしょう。奥羽越列藩同盟と一緒に薩長への徹底抗戦派もいれば、いや、時流は薩長、そちらに降伏したほうがよい、という方々もいたでしょう。
そんな中、中立を主張したんです。この考えは、前述の考えの人にとってはありえなく、腰抜け卑怯者呼ばわりされ、場合によっては、そんな武士を生かしてはおけぬ、ということで、命すら危うい立場になる可能性だってあったことでしょう。
当時の時代背景から推察しますに、考えの思考がかなり柔軟で、当時そんな考えを持って、主張できたことに非常に興味を持ちました。
しかしながら、河合継之助のような考えは時世が許すわけもなく、結果、長岡藩は奥羽越列藩同盟とともに、薩長連合軍を相手に戦いました。長岡を舞台に善戦されたそうですが、薩長連合軍の最新鋭の武器と圧倒的な兵力の前に退却を余儀なくされ、隣の会津で再起をかけて戦うために、山を越えて会津に向かったのです。
左の脛に敵弾の負傷を負った河合継之助自身は道中その傷が悪化し、今の只見町にあった医者の家で亡くなりました。皆さんご存じの通り奥羽越列藩同盟は敗れ、武士の時代の終焉となったわけですが、米百俵と言う言葉は、戊辰戦争後の長岡藩での出来事で有名になった言葉です。
戦争後に荒廃した日本を立て直すため新政府も各地で救援物資を支給していたようですが、長岡藩にはお米の救援物資が届く気配がなかった。
勝てば官軍負ければ賊軍とはよく言ったもので、長岡藩は賊軍のレッテルを張られてしまったわけで、昨日までの敵に優先的に配給されることなどなかったのでしょう。
そんな中、明治3年(1870年)5月、三根山藩(牧野家 現在の新潟県新潟市西蒲区)から百俵の米が送られてきた。三根山藩は、長岡藩(牧野家宗家)の分家でしたが、当時の長岡藩の人々にとっては非常にありがたかったことでしょう。
しかしながら、ここで問題が起きたのです。
米は届いたと聞いたが、待てど暮らせど配分させる気配がない。それどころか、藩の大参事である小林虎三郎がこの米を売って学校を建てようとしているというのです。
私腹を肥やそうとしているのか? にわかに殺気立ちます。
これに激怒したのが、その日暮らしのひもじい生活をしていた藩士でした。皆で小林虎三郎の元へ抗議にいったのです。畳に日本刀を突き刺し迫りました。
畳に日本刀を突き刺し、
「食えないから米を配分せよ」と迫ります。
小林虎三郎は
『食えないから学校を建てる』というのです。
藩士の頭の中は、「???」だったでしょう?
そこで、諭します。
『今、見舞いとして受け取った米を配分すれば、確かに腹の足しにはなる。しかし、百俵の米を長岡藩全家庭に分けても、一軒当たり二升ぐらいにしかならない。数日で食いつくしてしまう。それで、何が残るのか。今さえよければいいのか。苦しいからこそ、未来を変える種まきを、今しなければならないのだ』
『日本人同士が鉄砲を打ち合い、殺し合いをし、薩摩だの、長州だの、長岡などと、つまらぬいがみあいをしたのも、人物がいなかったからであり、人物がおりさえすれば、このような痛ましい戦いは起こらなかった。人物さえ育てれば、必ず盛り返せるに違いない。そう信じている』
『遠回りなやり方かもしれぬが、藩を立て直すには今日のことだけ考えずに、先々をことをよく考えてくれ』
と諭したという。
長岡市のHPにも下記「米百俵」の精神 (city.nagaoka.niigata.jp)で記されています。
昭和18年(1943)に新潮社から出版された山本有三氏の戯曲<米百俵>の中で、虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかける場面があるそうです。
「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。」「この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。」
現在、過去、未来の因果関係を冷静に見つめる必要があります。
これを、小林虎三郎は現在の状況を冷静に見つめ、過去を鑑み、将来を塾考し、連想イメージしたのでしょう。
目先の利益より将来の国益を取るために、米を売るということだったのでしょう。食えない時こそ教育が大切、と信じていたのでしょう。
その小林虎三郎の考えに心動かされ藩士も協力し、実際に、明治3年6月15日、長岡藩国漢学校として、新校舎の開校式を迎えました。初代校長には小林虎三郎が就きました。
小林の考えは、長岡藩(牧野家)の家訓、「常在戦場」の精神と照らし合わされていたそうだ。
長岡藩の武士の行動規範でもあったようだ。
常に戦場にありとは、戦のない時にも、常に戦場であるかのような心構えでいよ、ということである。戦場では、不平不満を言ってはおられぬ。いかなる困苦欠乏にも耐えよ、ということらしい。
現在は、過去と未来を解く鍵である。
過去現在未来はつながっている。心のありようで未来は変えられる。
それは、イメージできるどうか。想像連想できるかどうかにあると思う。
イメージや創造連想ができないと、思慮が浅いと、目先の利益にとらわれがちになる。
ゆとりのある人は、思慮が深く、連想し、様々なケースを想定できると思う。
そのような考えがあったのか、そこまで考えていたのか、と感心したりする。
そして、信念がある。
今の時分は、過去の結果、将来の時分は現在の結果。
将来を想像し、今をどのように生きるかを考え行動したいと思う。
なお、小林虎三郎と河合継之助は幼馴染で、家も近かったようです。
また、現在の長岡高校は、長岡藩国漢学校の流れを汲んでいるそうだ。
長岡藩の家訓である、「常在戦場」を心掛けていたのが、長岡出身の山本五十六氏であるのはあまりに有名である。
米百俵の言葉の裏には、深い背景がありました。